昔からの知り合いに「テニスをやっている」というと、たいがいの奴が笑う。 　むろんニコニコと好意的に笑うのではない。「おまえがテニス？　ぎゃははは。そりゃサイテーだ！　冒涜だ！」などと、あからさまに軽蔑的な表情で僕の鼻を指さし、腹をかかえてゲラゲラ笑うのが常だ。 　じつに不快である。 　まあテニスってのは、もともと宮様が軽井沢でなさるために開発されたスポーツなんだから、僕のような下賎の民がやるのは奇妙にみえるってのも、それなりに理解できないことでもない。じっさい、テニスのルールブックには「テニスコートに乗り付けるクルマは、ベンツかボルボ、最低でもワーゲンゴルフ以上のものを使用し、やむを得ず国産車を利用する場合は、必ずトヨタクラウンを用いること」と明記されてもいる。金がなければできないスポーツなのだ。 　だが、宮様にくらべると多少貧乏であるにもかかわらず、僕は長年スクールに通 って懸命に修練を積んできた。なので、今ではテニスはかなりうまいほうだと自負している。 　どのくらいうまいかといえば、サービスとリターンとグランドストロークとボレーとロブとスマッシュがぜんぜんできないほかは、ほとんど完璧な技術を身につけているといってよい。なかでもコートのブラシ掛けとボール拾いは絶品との評価を受けており、ほかのことは何一つ褒めてくれないコーチたちも、ブラシの掛け方がじつに優雅だとか、ボール拾いはなかなか鋭いねとか、レッスンのたびに褒めてくれるほどだ。 　そんなわけで、僕は正真正銘まじりっけなしのテニスボーイなのである。 　しかし、それじゃテニスが好きなのかと訊かれると、少しばかり疑問ではある。なにしろテレビ放送でさえ、一度もちゃんとテニスのゲームを観戦したことがないくらいだ。もともとテニスは、たんに何か適当な運動がしたいと考えて始めたことだった。 　僕は幼少の頃から柔道をやっていたが、残念ながら柔道はあまり一般 向きのスポーツとはいえない。たとえば取引先とのお付き合いで、美しい女性など数名を含めて信州・八ヶ岳の貸し別 荘に２泊３日で遊びに行ったとしよう。そのとき「それじゃひとつ柔道でもやりますか」なんつって、いきなりみんなで柔道着に着替え、神棚に一礼したとたんに、バカスカ前方回転受身をはじめるっちゅーシチュエーションは、やや考えにくい。そこへいくとテニスには、まだ可能性がある。 　そう考えて、突如としてわけもわからずスクールに通いはじめ、わけもわからずいろんな技術を教えてもらっているうちに、結局一度もまともにゲームをしたこともないまま数年を経て今日に至ってしまった。せっかく教えてもらった各種の技術も、いったい何の役に立つのかさえわからぬ まま、サルのごとくひたすら反復練習する日々が続いていたわけだが、幸いにも、ようやく最近になって、ときどきはゲームをする機会を与えてもらえるようになってきた。

が、テニスのゲームは難しい。 　なにが難しいといって、まずルールが難しい。なかでも点数の数え方がきわめて複雑だ。ゼロを「ラブ」と呼ぶところからはじまり、そこから対数関数と余弦定理とアボガドロ定数とレイノルズ係数を駆使した超複雑で超高度で超難解な演算を繰り返し、いくつもの中途半端な数値を算出しつつ、終了を「ゲーム」と呼ぶところで終わらなくてはならない。 　これに慣れるのに、東大生や外交官でも、早くて２年、遅ければ10年以上かかるといわれている。 　そしてゲームをするとやたらに足がつる。足がつるときは、たいてい頭のいかれたハウンド犬みたいに、ヨダレを垂らしてボールを追いかけまわしている最中だから、激走中にいきなり転倒してフェンスに激突し、頭蓋からどくどく流血しまくるといった惨状を呈することもしばしばだ。テニスのゲームとは、それほどハードでスリリングなものなのだ。 　もっとも各種のテニス技術のなかでも、僕はこの足をつらせるテクニックにはとりわけ秀でており、ウィンブルドンでもめったに見られない「両足をいっぺんにつらせる」という特殊な技を繰り出せるほどの技量 をもっている。 　そのため僕はコーチたちの間でも「足つり男」として有名で、スクールに顔を出すと、たいていのコーチが開口一番、「あれ、高橋さん、今日は足つってないんスか？　なあんだ、けっこうまともに歩いてるじゃないスか。ひっひっひ」などと、白い歯をみせて爽やかに挨拶してくれるのだ。 　さて、そんな熱血テニスボーイ高橋にも悩みはある。それは、目下適当な対戦相手がいないことだ。 　なにしろ自分がきわめて高度な技術をもっているだけに、あまり下手なプレーヤーとではゲームにならない。つまり３歳以下の乳幼児や、ワオキツネザル、またはモリアオガエルといった連中と対戦すると、相手のレベルが低すぎて勝負にならない。かといって、あまり上手なプレーヤーとやると、反対にすぐ負けてしまう。つまり、大半の人類とやると簡単に負けてしまうのだ。 　もしこの小文を読んでる人のなかで、僕とテニスをしたいという人がいたら、どうか遠慮なく申し出てほしい。あらかじめ、必ず僕に勝たせるという誓約書に、連帯保証人とともに署名・捺印しておいてくれれば、弁護士立ち会いのもとで１ゲームか２ゲームくらいお相手して差し上げてもかまわないと考えている。